つながるクリニック

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m3.comの取材を受け、全3回の連載記事にしていただきました。以下に全文を掲載いたしますので、ぜひご覧ください!
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第一回:ずっといるはずだった青森を出て「見える事例検討会®」を開発

横浜市港南区には約6000戸を有する大規模団地「野庭住宅・野庭団地」がある。建物の竣工から約50年が経過し、住民の高齢化が顕著である。青森県出身で自治医科大学卒の八森淳氏は、都市型の総合診療の意義を見出し、2016年に当団地のサブセンター内につながるクリニックを開業した。また、「見える事例検討会®」(見え検®)を開発して多職種連携の発展に貢献している。八森氏のキャリアや見え検の開発、訪問診療の実際、在宅入院®などについて聞いた。(2025年7月9日インタビュー、計3回連載の1回目)

長男だから、青森県でずっと医療を続けるつもりだった

――医師を志した理由や自治医科大学を選んだ理由を教えてください。
私はいちご煮で有名な青森県階上町に生まれ育ちました。子ども時代は体が弱く、月の半分は電車に乗って小児科通いをしていました。田舎育ちなので「長男は実家に残るものだ」と信じ、食べていくなら医師がいいかなと漠然と考えていました。
とはいえ、医師になるには6年間も大学に通わなければなりません。学費が心配になってきた時、親戚が自治医科大学の存在を教えてくれました。高校生の自分は「へき地医療の義務があるといっても、実家以上に田舎なところはなかろう。自分は青森県でずっと暮らすのだから、県内の医療機関で働くのは当然だ」と素直に考えて、自治医科大学に入学しました。


――自治医科大学卒業後は青森県職員となり、義務年限を超えて13年間にわたり六ケ所村尾駮診療所などのへき地での診療に当たられました。
研修医時代は必死でした。へき地では、自分以外に医師がいない環境下での診療もあり得ます。しっかり学んでおかないと、自分が患者さんに害を与えてしまうのではないかという恐怖心が強かったです。当直でない日にも自主的に救急室で学ぶなどしていました。
医師3年目で赴任したのは40床ほどの町立病院でした。ここで病気だけでなく生活全般に対して責任を負うことの意味を知りました。ここでは多職種連携なしでの医療はあり得ません。看護師や事務スタッフは患者さんの既往歴、家族関係、キーパーソンなどを熟知していて、生き字引のような存在でした。医師の役割は、患者さんだけでなく、スタッフも安心させることだと理解しました。
六ヶ所村の診療所では、先輩医師による診療レビューで臨床力を磨きました。診療後にその日に診た患者さんのカルテや画像を2~3時間かけて見直すのです。毎日ヘロヘロになりましたが、臨床疫学的な診断(EBM)の考え方を知り、根拠が必要となったときに、どのように自己学習をすればいいかを学べました。
行政とのつながりも増えました。田舎の首長は土建系の出身者が多いため、予算を医療・介護・福祉にも適切に配分していただくには、質をお金に換算した経済分析が必要ではないかと感じていました。これが後々の研究につながっていきます。
私はかねてから地域の中で研究することが大事だと思っていたので、六ヶ所村での勤務後、地域医療の現場で行う研究を学ぶため自治医科大学地域医療学で1年間、後期研修を行いました。その後、百石町(現在のおいらせ町)の町立病院に勤務する中、地域の中での研究を行うため、ニューキャッスル大学(オーストラリア)の遠隔教育を受けて、プロトコールや質問票の作り方、医療経済分析といった研究理論を勉強しました。
その流れで、地域で軽度認知障害(MCI)のコホート研究を行うという話をもらいました。認知症になりかけた人をただ追跡するだけでは…ということで、認知症予防のプログラムを作って地域の人々と一緒に運用していくことにしました。
その後、当プログラムと研究成果に注目をいただき、全国の大都市を回って講演活動を行うことになりました。この時、メディアの人やデザイナー、演出を行う人たちと出会ったことは、今のクリニック運営における、デザインと情報発信の仕方に大きな影響を与えています。

研修の仕組みづくりや地域研究に従事

――2004年から青森県職員を辞めて地域医療振興協会臨床研修センターにて12年間勤務されています。どのようなお仕事をされていたのでしょうか。
当初は青森県職員を辞めて他所で働くなんて頭は全くありませんでした。青森県の医師として、標欠(患者数や病床数に対して医師数が少ない状態で、診療報酬が減算される)を免れるために、個人的な伝手で大学時代の仲間に応援に来てもらうという努力を死に物狂いでしていたのですが、行政の医療に対する方針と私の考え方には大きなギャ ップがあり、不満に思うことがありました。
そんな中、自治医大の先輩であるEBM界の大御所・名郷直樹先生(武蔵国分寺公園クリニック名誉院長)から、地域医療振興協会で臨床研修センターを新設するというので声をかけてもらいました。本業は臨床研修の仕組みを作って、いくつかの病院の研修医たちのマネジメントをすることで、空いた時間は何でも私の好きなことをしていいとのこと。そこで県職員を辞めました。
認知症の診療や地域アプローチに関しては、百石町での活動を活かして、全国での講演を続けるだけではなく、行政の認知症予防プログラムのアドバイザーをしたりしていました。その中には横浜市も入っていました。研究手法の学習は、QOLと社会支援尺度を用いた横浜市の介護予防事業評価プログラムの受託につながり、横浜市全区対象に研修などを行うこととなりました。
また、医療経済分析を行う機会にも恵まれました。抗認知症薬ドネペジルによるQOL改善の価値を金額換算する研究を行い、論文を発表しました(老年精神医学誌 2009;20:997-1008)。ドネペジルは認知機能検査のスコア改善は限定的ですが、本人の表情が良くなり会話が進むなどのコミュニケーション面を改善し、それによって家族や周囲の 記事検索人々のQOLも向上していました。認知症の本人だけでなく、家族など生活を支えている人たちにとっても価値がある薬であることを示すことができました。

見える事例検討会へとつながる、マインドマップとの出合い
見える事例検討会の様子

――八森先生は「見える事例検討会」の開発者としてよく知られていますが、このベースとなった思考ツールである「マインドマップ」とはいつ出会ったのですか。
地域医療振興協会臨床研修センターに勤務している頃に、医療経済分析の共同研究者からマインドマップの勉強会があるよと教えてもらい、参加してみるとハマりまして、続けて何度も講習を受けました。
マインドマップとは、中央に置いたイメージからカラフルな枝を放射状に広げていく思考ツールです。階層構造や関係性を一目で把握できるため、考えを整理したり、チームで共同作業を行ったりするのに適しています。
当時は横浜市金沢区において、地域連携で認知症の人を支援する仕組みづくりに取り組んでいました。その一環として、困っている事例をみんなで解決しようということで、多職種で事例検討会を行っていました。
しかし、困難事例はあまりにも多面的に問題が広がりすぎていて収集がつきません。あるとき、弁護士さんから「もう少し患者さんをイメージしやすい検討会の手法はないか」と言われて、マインドマップが役立つのではないかと思い付きました。そこである日、いつもの事例検討会で何の説明もなく、いきなりマインドマップを書き出してみました。

――参加者はみな驚いたのではないですか。
いえ、検討会中、参加者はしらっとしていました。終わった後でコソコソ「これって一体何だった?」って。見たこともないものが現れたけど、自分だけ知らないとは言えなかったようです。それに気づいて、次回からマインドマップに関する説明をし始めましたが、説明がなくても、事例の状況をつかみやすかったと高評価でした。それなら形にしようと、ファシリテーションの技術も交えて32の工程に整理した「見える事例検討会」を約2カ月で作りました。
見える事例検討会の開発には、当時、金沢区の地域包括支援センターにいたソーシャルワーカーの大友路子さんも関わりました。大友さんは現在、当院の事務長兼相談室室長となっています。

【取材・文・撮影=伝わるメディカル 田中留奈】